ASSASSIN'S CREED Wiki
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Brother O’Callahan

・誕生年:1452
・肩書き:修道士

ペイル(アイルランドの中でイングランドの統治下に置かれていた地域のことだ。辺境とみなされ、「常軌を逸している」と言う意味の英語、beyond the Paleはこれに由来している)の外で生まれたダービー・オ・キャラハンは、イングランド人の居住地を襲ったり狩りをしたりして十代を過ごした。著書の中で彼はこの頃のことを、自分の人生の中で暗い時期だったが、正直に言えばそれなりに楽しんでいたと書いている。

オ・キャラハンの父親はゲール人だったが、彼がカソリックの女性と結婚したことですべてが変わった。父は私に畑で働くことを強いた。襲撃も駄目。女の子たちとも戯れるのも駄目。この世の地獄だ、これは1462年に彼が書き記した言葉だ。父親から逃げるため、オ・キャラハンは修道士になることを決心した。母が言うには、修道士はほとんど働かず、季節ごとの休日には大変なご馳走を食べるそうだ、というわけさ。

1462年、彼はアベイララ修道院の門を叩き、シトー会修道士になった。だが、この修道会はオ・キャラハンにとって厳格すぎたようだ。明け方から夕暮れまで、私たちは畑で働いた。ショウ院長は飲酒を認めてくれなかったし、最悪だったのは女性が尼僧しかいなかったことだ。ここはまさに想像を絶する地獄だった、だとさ。

何人かの同僚たちを説得してドミニコ会に入ることを承知させたオ・キャラハンは、1463年、イタリアに向けてアイルランドを旅立った。イタリアなら農夫を雇い、代わりに畑仕事をさせることができる。説教の時間になれば、イタリアの黄金色の光と農夫の妻たちの情熱的な顔の中に、私たちは神の美を見い出すことになるだろう、だそうだ。

だが結局、1493年にはドミニコ会からも追い出されることになる。酒場にいる人々を改宗させようと繰り返し試みたため、にだ。オ・キャラハン自身の評価によれば、改宗は大成功だったようだが、人々が教会に来ることを拒んだため、私は何度も酒場に足を運び、主の御言葉を説いて聞かせなければならなかったというんだから、何をか言わんや、だな。

1494年、オ・キャラハンはロマーニャの田舎に移り、無人になっていた教会で聖パトリックを称える修道院を開いたが、宗旨替えする奴はあまりいなかったようだ。

1500年、オ・キャラハンはこの世を去った。悪い血が原因だと書き残しているが、まあ、梅毒だろう。遺体は教会のそばの小さな墓地に埋葬されたそうだ。

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